神聖ローマ帝国(メモ①)

フリードリヒ3世(Friedrich III., 1415年9月21日 - 1493年8月19日ドイツ王在位:1440年~1493年、皇帝在位:1452年~1493年)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝

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オーストリア公エルンスト(鉄公)とツィンバルカ・マゾヴィエツカの間に生誕。又従兄のドイツ王アルブレヒト2世の急死後に皇帝位についた。
最初はケルンテンなどわずか3州の貧しい領主でしかなく、統治者としての決断力に欠けて臆病で気が弱く、常に借金で追われるみじめな状況であった。フス戦争で混乱に陥ったボヘミアをオスマン帝国から防衛する任をオーストリア大公に託すという理由とともに、コントロールしやすい人物というのが、選帝侯から皇帝に選ばれた理由であった。数多くの蔑称で呼ばれ、死後は「神聖ローマ帝国の大愚図」という綽名を贈られるほどであった。さらにまともに衝突した場合、歯の立たない政敵が大勢立ちはだかったが、辛抱強く敵が去るのを待ち、選帝侯らの予想に反して53年もの間帝位を占有し続け、ハプスブルク家の帝位世襲をついに成し遂げた。
フリードリヒ3世は一見、凡庸な君主であったが、敵対者はことごとく都合良く死亡し、長生きと悪運の強さで、自発的には何もしないままハプスブルク家の繁栄の基礎を築き上げた

 

マクシミリアン1世(Maximilian I., 1459年3月22日~1519年1月12日)は、ハプスブルク家出身のオーストリア大公、神聖ローマ皇帝(在位:1493年~1519年)。

”マクシミリアン”の名はローマ時代のポエニ戦争で活躍した2人のローマ人、ファビウス・マクシムス(Fabius Maximus)とスキピオ・アエミリアヌス(Scipio Aemilianus, 小スキピオ)にちなむ

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ハプスブルク家の隆盛の基礎を築きあげたことからハプスブルク家の中興の祖ともいわれ、マクシミリアン大帝と称される。また武勇に秀で立派な体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。

◎結婚政策による戦乱なき勢力拡大

「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻を通じて領土拡大を実現した。その最も成功した例はマクシミリアンの時代であった。
自身の結婚によりブルゴーニュ自由伯領、ネーデルラントを獲得した。
子フィリップとマルグリットをそれぞれカスティーリャアラゴン王家の王女フアナとアストゥリアス公王太子)フアンと二重結婚させた。マルグリットの夫フアンらの早世により、イベリア半島の大部分と、ナポリシチリアを獲得した。フィリップは早世するが、その子カールはのちにスペイン王(カルロス1世)と神聖ローマ皇帝(カール5世)を兼ね、ハプスブルク家隆盛の基礎を築いた。スペインはアメリカ大陸を征服し、日の沈まない帝国を築いた
孫フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)とマリアをハンガリーのヤギェウォ家の子女と結婚させた(ウィーン二重結婚)。マリアの夫ラヨシュ2世は1526年にモハーチの戦いで戦死し、この結婚を取り決めたウィーン会議1515年)の決議に従い、ラヨシュの姉アンナの夫であるフェルディナントがハンガリーとボヘミアの王位を継承した。

神聖ローマ帝国発の文化的事業への貢献

1498年、旅から旅への日々を過ごしていたマクシミリアンは、やがて楽団を同行させるようになり、旅先での儀式はもちろん、旅の途中でも演奏をさせた。旅の楽団のメンバーは、後に作られたウィーンの王宮礼拝堂の聖歌隊に参加させ、宮廷礼拝堂少年聖歌隊と創設したが、これがウィーン少年合唱団の前身となった。
アルブレヒト・デューラー(ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。)を庇護した。
帝国の領土内に郵便制度を導入した。